少年であった僕、大人になった僕

昨年、40代になりましたがお腹が出てくるなどの身体的な要素はさておき、精神的な部分の変化も気になるようになってきました。

一言で鈍くなったんです。

「何を見ても何をやっても感動しなくなった自分に気がつくだろぅ〜♪」と歌ったかまやつさんの歌詞が重くのしかかってくる。

僕は高校生の時、一生続ける趣味として音楽を聴き続けようと決めました。当時、1万円近くするレコードなんてやっとの思いで手に入れて、まるで宝物のように扱い、溝の端っこから端っこまでくまなく耳を研ぎ澄ませていたのに、今じゃレコードを買って、針をトントンと飛ばしながら聞いて終わりなんてことも結構あります。

市場価値や今後の動向を見て「このレコードなら持っていても損しないな」なんて思いたいして好きでもない音楽を買ってしまったり、逆にお金を出してでも欲しいレコードというものもほとんどなくなってしまい、数万円叩いて買ったレコードであっても以前のような音楽的感動は得られなくなっています。

だからと言って音楽を聞くのをやめようとは全く思っていませんが、音楽の向き合い方を変えながら、以前とは違った角度で楽しんでいければいいのかなと思っています。若い時期にはあまりにも音の影響力が大きかった分、その世界から抜け出せなくなっていましたが、今は音への出入りが自由にできる分、新しいことに挑戦できる場所にようやく立てたという感じがします。

ただ、40代というこの年齢。
鈍い、自分の感度が非常に鈍いわけです。
寒い日には、1日こたつに入って終われる自信あるみたいな。

そこで昨年手にしたのが、エアガンです。
ウエスタンアームズ製、デルタフォースカスタム バトルダメージ

エアガンなんて小学生の頃遊んだ程度で、詳しいことは分かりません。当時ガスガンを持っている近所のお兄ちゃん達を見て「スゲェー」って思った記憶ぐらいで。

そのリアリティと迫力に憧れた少年の僕の瞳。
右も左もわからず、ただ純粋に惹かれるものへ飛び込める少年の魂。
40代となった僕がその夢を叶えてやろうじゃないか。

それから1ヶ月ぐらいはどんなガスガンが市場に出回っているのかネットで調べまくる毎日。当時からハンドガン以外は興味がなかったので、ハンドガンのガス式のみに絞りました。

あらためてエアガンを見てみると、実銃をモデルにしたものが非常に多いことがわかります。1911シリーズ、ベレッタ、SIG、グロックなどなど、まるで本物の銃を持ったような疑似体験を合法的に味わうことができるということでしょうか。調べれば調べるほど、実銃よりエアガンで実装する方が難易度高いよなと思う構造になっていて驚くばかりです。

少年であった僕を呼び起こしながら、大人になった自分が共鳴できるポイントを探すイメージで心赴くままに情報収集しましたが、その過程はとても楽しいものでした。もう、実物を手にしない方が楽しみが永続するんじゃないかって大人になった自分が考えてしまうほど、ネット越しにみるエアガンの画像に心が踊っていました。

大人になって、原因と結果の因果関係がよく見えるようになり、こうすればああなる。という方法論が確立されてしまう中、その方式を知りたいと思った原因までたどっていけば、理由なき純粋な精神があったし、理由なき純粋な精神を失えば全ては虚しさしか残らないんだとあたらめて感じました。

その後、銃口を収めるケース、ハンドガンケース、BB弾やガスなどを買いましたが、実は数えるぐらいしか打っていません。ガスガンは寒さに弱いというのもありますが、ひっそりと少しづつ続けようかなと思っています。

創造者

彼女は事故により嗅覚を失った。
匂いのない世界。

本当にそう捉えていいのだろうか。
「失う」という言葉に悲しみを覚える。

言葉はある種の方向性を決める。

ある時ふと思った。
「匂いを生み出さない世界」なのではないかと。
彼女は匂いを創造することをやめたのだ。

事故によって視力を失ったなら
それは映像という世界を作るのをやめたのだし
生涯を全うしたのなら
現実という世界を創造することをやめたのだ。

つまり、自分とは世界を創造するものでしかない。
生とは創造そのものであると気がついた。

楽しいこと、苦しいこと、悲しいこと。
上流から下流へ水が流れるように
朝日が毎日登るように
自らが創造した世界は完璧に自分に答えてくれる。

今はもっと手を取り合えるような世界を僕は創造したい。

資本主義に抱いた夢を探す

ここ数年、動的な音楽から静的な音楽へシフトして音源を聴いています。
資本主義経済の転換がどんどん差し迫ってきているのを肌で感じつつ、次の時代のメンタルを音楽を通じで模索しているのだと自分では感じています。

資本主義社会において重要なメンタルは競争心です。
優れたサービスは生き残り、そうでないものは消滅、または吸収される。
その基本原理は僕が生まれた時からの話で疑う必要性すらありませんでした。

ところがここ数年、資本主義に支えられた様々な部分、物質的なことも、その中で生き抜くための精神的な部分も虚しく感じることが増えてきました。
終わってもいない資本主義の生活が、昭和を振り返るような懐かしさすら感じることもあります。

様々な観点から先人たちが資本主義に抱いた夢を見出すことが出来ると思いますが、その本当の意味を今理解するべきタイミングが来たのだと僕は感じています。

今年の音楽の旅は、資本主義に抱いた夢を探すことです。
それは時代が変わっても引き継がれるべき大切なものだと感じます。

今年の抱負として締めます。

黄金色の波紋

それは黄金色をした音
波紋のようにゆっくりと広がる光が
地平線の彼方まで響き渡る

そこに言葉はなく
これっぽっちの知性もいらない

暖炉のようなやわらかな温もりが
光へ向かう昆虫たちのように
心の奥底の絶望さえも
幻想に変わる

小麦畑に吹く風のように
ひとつひとつの稲穂が
黄金の絨毯になってダンスをする

 

インディゴの雫より

AIによって相対化されていく人間像

カメラが壊れてからブログを書く気にならなかったのですが
先日修理が終わったので久しぶりにブログを再開します。

最近は人工知能の情報を漁っているのですが、人間の特権と思われていたものが、少しづつ崩壊していくのを目の当たりに感じるようになってきました。

去年の末には情報処理学会が、将棋プロ棋士への挑戦を「事実上の目標を達成した」として終了。
将棋より局面が多い囲碁においては更に10年かかると言われていたのに、先日AIが欧州チャンピオンに勝利したとの報道を見た時には驚きました。

この10年を一気に縮めたのは、ニューラルネットワーク〜ディープラーニングによる恩恵が大きいと感じています。

囲碁や将棋はエンターテインメントとしての楽しみがあるので、わざわざコンピューターとやらなくても人対人という形で続いていくのだろうけど、問題になるのは様々な仕事がAIに取って代わるということです。
10〜20年後には今ある仕事の半分が無くなるという予測にリアリティを感じます。

個人的に最も気になる金融市場で使われているAIです。
自分が育てたAIが強くなれば億万長者、いやいや億万「兆」者も夢じゃない。
AIの作成はIT企業の分野で、ソフトを開発して販売するより直接市場で売買して儲けちゃえばいいというダイレクトな点も面白い。
既に市場の半分は人工知能の売り買いと言われてますが、個人でもAIを使うようになったらどうなるんだ?という疑問はあります。
AIを盾に売り買いするようになれば、他より強いAIを開発する戦いに変わります。
もはや意味不明です。

AIの技術革新によって国家、法律、社会、倫理など多方向で急速に変化せざるを得ないので、一体どうなっちゃうんだろう?という呑気な傍観者的立ち位置で見てしまいますが、急速な変化を素早くキャッチして追従する人、関心がない人との間で温度差が生まれるので、そこから生まれる争いは避けられない気がします。

僕の関心ごとの1つは、AIによって相対化されていく人間像にあります。
人間には思いもつかなかったこと、これまで間違いだとされていたこと、当たり前すぎて疑問すら抱かなかったこと、そういった人間固有の価値観がAIによって刺激されたり壊されることで、人間の本質により1歩近づけると思うからです。

知性という分野においては、AIにバトンタッチすることになるだろうし、AIから見れば僕もアインシュタインも変わらないという話になれば、人間同士の奪い合い、競い合いはもはや意味がありません。

2016年はAIへの敗北として価値観を変えるより、もう一度我に返って自分自身の世界のあり方を組み直していこうかと思います。これは悲観的な意味でなはく、これまでの人類の歴史の中で、絶えず現実に押しつぶされていたものが次々と消滅し、諦めてしまった多くの理想が重要になってくると感じるからです。悲観的というより、かなり楽観的です。

想像力をフルに働かせつつ
究極の理想を描きつつ

そんなことを考えつつ、抱負っぽく締めます。